東京都最果ての島で、絵画展が行われています。
【フィアラ展】100年前の小笠原~大正時代のチェコ人画家が描いた島の絵~
広報を見たとき、みぃが最初に感じたことは
なんでチェコスロバキア人なの???
でも、100年も前に外国からやってきてたくさんの絵を描いていた人がいるっていうのは興味深い。
しかもその人は、いまみぃが住んでいる扇浦地区で描いていたらしい。。。
ということで、チェコスロバキアっていう国については名前しか知らないし、絵画についても詳しいことは知らないけれど、100年前に描かれた小笠原の絵を見てみたくて行ってきました。
【フィアラ展】100年前の小笠原~大正時代のチェコ人画家が描いた島の絵~
開催場所は【HOTEL PAT INN】(ホテル・パットイン)
ラウンジからレストラン・客室を利用しての展示会となっています。
主催者は、小笠原のフリーペーパー【ORB】編集長のルディ・スフォルツァさん。
島のバーで、30年以上も前に作られていたローカルペーパーを見たときにインスピレーションを感じ、自分でも作ってみようと思ったそうです。
2016年12月に、下記のフリーペーパー・ORB創刊号を発行しました。
無料とは思えないステキなデザインのなかに、長く住んでいる島民も知らないような濃い内容がほどこされているフリーペーパーです。
編集長・ルディが、かつて小笠原を訪れていたロシア人画家【ダヴィド・ブルリューク】について調べていた頃、東京チェコセンターでは「大正時代を生きたチェコの画家 ヴァーツラフ・フィアラ絵画展」が開催されていました。
これは日本とチェコスロバキアの国交回復60周年を記念して、チェコ大使館で行われたものです。
フィアラはブルリュークの助手として、小笠原へ一緒に来ていたのです!
それならば小笠原で描かれた絵をこの地で見てもらおうと、チェコセンターで開催された経緯をたどり、多くの人や団体の協力を得て、今回の開催に至りました。
・・・本当は彼らの来島100周年の昨年に開催したかったのですが、コロナウィルスのことがあって延期になっていたのです・・・
チェコ人画家【ヴァーツラフ・フィアラ】ってどんな人?
ヴァーツラフ・フィアラは小笠原を訪れたアーティストたちの中で決して有名ではありません。
彼が小笠原に来た頃は偉大なブルリュークの旅に同行する、若い駆け出しの画家でしたが、その才能は紛れもないものでした。
日本でもすでに知名度の高かったブルリュークと共にフィアラも注目を浴びたと言われています。
<引用元:Freepaper ORB>
ヴァーツラフ・フィアラはプラハの出身で、幼少期からロシアに移り住んでいました。
やがて絵の勉強をする道へ進み、在学中に【ロシア未来派の父】と呼ばれるダヴィド・ブルリュークに出会い、1920年にブルリュークと共に来日します。
来日後すぐに展示会を開き、そこで出会ったロシア人画家から小笠原のことを聞いて渡島したようです。
・・・ということは、ブルリュークやフィアラ以外にも多くのアーティストたちが小笠原を訪れていたのでしょうね。
フィアラは帰国後にブルリュークの元を離れて独自の展示会を行い、その後グラフィックデザインやイラストレーターとして活躍していました。
100年前に描かれた扇浦の景色
私がいちばん魅かれた作品はこちら『海の眺め』です。
扇浦を見下ろす墓石と、それを取り囲む小笠原らしい植物たち。
マルハチ、ソテツ、アオノリュウゼツランなどが描かれています。
お供えしてある花はアマリリスのようですね。。。
実はこの墓地、近所にあるのは知っていたけれどまだ訪れたことがなかったのです。
この絵を見たあとで、足を運んでみました。
いまは木々が生い茂って海は見えないけれど、100年前にはここから扇浦を見下ろすことができていたのですね。
川の流れ込むビーチにはかつて、無花果(イチジク)の木が植えられていたようです。
いま川は枯れていますが、雨が降ると上の絵と同じところに川が現れます。
100年前に描かれた場所に立ってみると『変わったけれど変わっていない』雰囲気を感じます。
戦後の開発や木々の成長によって見た目は変わっていますが、そこに存在する【空気感】は変わらないものがあると思いました。
言葉で表現することは難しいけれど、そこに立ってみて初めて感じる雰囲気があるのです。
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ゴーギャンはタヒチを・ブルリュークは小笠原を目指した!?
私は絵画について詳しくないので、ダヴィンチ・ゴッホ・モネ・ピカソなどの有名絵画を見聞きしたことがある程度です。
○○派とか○○主義とか、まったくわからない(笑)
いやでも・・・特別に美術の勉強をしていない人はそんな程度ですよね・・・?
そんな私でも、ゴーギャンという画家がタヒチで過ごし、そこで大作を描いたということはなぜか知っていました。
パリでの生活がイヤになって【楽園・タヒチ】へ渡り、その美しい自然に囲まれながら恋に落ちた様子は「タヒチの女」を目にした時に感じたのです。
小笠原という、ある意味タヒチと似たような環境を選んで住んでいるからこそ感じることができたのかもしれません。
「色彩豊か」って表現されることが多いようですが、南の島って色彩豊かなんですよね・・・(笑)
上の『山道 牛を連れた男』もとてもカラフルで、タヒチで描いたゴーギャンの作品に影響を受けているような感じもします。
釣られてきた魚の絵も描かれていますが、やはり赤や青といったカラフルな魚やサメが多いようです。
ヨーロッパからやって来た彼らにとっては、驚きと新鮮さにあふれる光景だったことでしょう。
当時は、南の島で才能がより開花させられたゴーギャンに憧れて南の島を目指す芸術家も多かったかもしれませんね。
『南の島とはいえ、ゴーギャンとは違うところへ行かなきゃ』って考えてブルリュークが選んだのが小笠原だったのでしょうか・・・?
我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
これはゴーギャンが描いた絵のタイトルではありますが、自分が選んだ道を歩みながらも迷いを感じている人すべてが思うところではないでしょうか。
ゴーギャンはパリでの生活がイヤになってタヒチへ渡り、結果的には後世に残る作品を描いています。
でも、情熱的な恋に落ちながらも授かった娘を亡くし、それが原因で家からの立ち退きを余儀なくされて借金を抱え、健康状態も悪化して自殺未遂にまで至っています。
フィアラとブルリュークが小笠原へやってきた時もちょうど軍事態勢が強化されつつあった頃で、写真を撮ったり絵を描くということに対する規制が大きくなっていました。
だから滞在3ヶ月で引き揚げたのです。
自然豊かな島で暮らし、大陸で暮らす人々とは一線を越えて輝いて見える人々の、内に秘めた苦悩。
そういったことを表現した作品だからこそ、人々の心に響くのかもしれません。
本土から移住し、心打たれた大自然に囲まれて生活しながらも、やはりぬぐうことのできない【外者扱い】
それは100年前から・・・きっともっと前から存在し、なくなることはないのでしょう。
それでも小笠原の海で生涯を終えたいと思う私には、心打たれる展示会でした。
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