まだ幼稚園に通う頃、
よくバレリーナの絵を描いていました。
新聞に挟まってくるチラシの裏紙に、
鉛筆で描いていたのを覚えています。
なぜバレリーナだったのでしょう…?
詳しくは思い出せないのですが、
もしかしたらロシアのバレエ団による『白鳥の湖』の
日本公演などがあったのかもしれません。
テレビコマーシャルでバレリーナを見ていた記憶はあるのです。
真っ白でひらひらしたスカート、
足先まで真っ白にコーディネイトされたタイツとバレエシューズ、
頭にキラキラと輝くティアラ、
オンナの子の憧れの姿です。
そんな昔の北埼玉の田舎にもバレエ教室があったようで、
幼稚園のクラスの中に、バレエをを習っている子がいました。
それを聞きつけ、両親に『バレエを習いたい』と申請し、
『オマエみたいなデブには無理』と却下されました。
ハイ、私は体格のいい子どもでした。
『お世辞にもかわいいと言えない』と
祖母から言われたという話を、
耳にタコができるほど、母親から聞いていました。
たぶん、いろいろな感情を胸に抱えながら
バレリーナの絵を描いていたのでしょう。
中学生の頃になると、アイドル歌手のバックで踊る
『スクールメイツ』とか『ヤンヤンガールズ』などに憧れました。
中学生ともなれば新聞も読めるので、
週末に掲載される『スクールメイツ・オーディション』
というタイトルに魅かれたりもしました。
でも、オーディション会場の『渋谷』や『原宿』などは、
田舎娘にとっては未知の、夢の世界でした。
その夢は
運動会の応援合戦で、チアの振り付けを自ら進んで考え
クラスの女子ををまとめて踊る、ということにシフトされていきました。
歌番組の全盛期、
アイドル歌手のバックで踊るダンサーたちばかりを目で追っていたので
振り付けのアイディアも豊富だったのでしょう。
いま考えると、クラスの女の子たちも、
よく受け入れてついてきてくれたものだなあと思います。
高校受験の時に、チアリーディング部のある学校にと考えたのですが
唯一見つけた県内の高校は学区外でレベルが高く
そんな学力も兼ね備えてはいませんでした。
ステージで踊るという夢は封印され
幼い頃に夢見た『ケーキ屋さん』になる夢も
高校3年生の春に失い、就職への道は投げやりでした。
与えられた仕事は一生懸命こなすものの
そこに『楽しさ』や『やりがい』は見いだせずにいた時に
職場の近くに『ジャズダンス・スタジオ』を見つけました。
『フラッシュダンス』という映画が劇場公開されて
【画像:https://matome.naver.jp/odai/2148772861644146601】
ダンスブームが起こっていた頃でもあり、
入会してすぐに夢中になりました。
熱心に通っていたので、
先生が他のスタジオで教えるときに時々アシスタントとして呼んでくれたり
スタジオオーナーの雑務を手伝うことで
レッスンフィーを割り引いてもらえたりしていました。
そのスタジオは曜日や時間帯によって
子ども向けのバレエ教室やオトナのバレエレッスンもあり
話題になりつつあった『エアロビクス』のクラスもあったのです。
スタジオのお手伝いで行っていたときに
たまたまエアロビクスのクラスにぶつかり
そのクラスを見た瞬間に開眼。
『これは私がインストラクターをやらなきゃいけない!』
そう思いました(笑)
ダンスのクラスは楽しかったけれど
まだ身体の硬かった私にはスローテンポの曲でしなやかに踊るのが苦手で、
アップテンポの曲ばかりだったらいいのにな…
と思っていた頃だったのです。
アップテンポの曲に合わせてフィジカルに踊りながら流す汗!
これを仕事にしなければ!
幼い頃からいつも心に抱えつつ実現できなかったことが
自分で稼いだお金を資金に、
やっと手に入れるチャンスが見えてきたのです。
それまでの仕事を辞め、電車で通える範囲にあった
『エアロビクスインストラクター養成科』に申し込み
アルバイトをしながらクラスに通う生活になりました。
見えてきた夢に向かってまっしぐら
みぃの生き方が動き始めた、二十歳での第一歩です。
コメント